思い出話
「ぼくのおばあちゃん」を観て
突然ですが、、、
今、無性に“おばあちゃん”に会いたいです。
母方の祖母は、私が6歳の頃に亡くなりました。
母の実家は新潟の佐渡。当時の私は東京、と、離れていたので
ちょくちょく会う事は出来なかったけれど、記憶や写真の中での祖母は
いつも優しく笑って、私の手を繋いでくれているのです。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
祖母に会いたくなった“理由”は・・・
ドラえもんの『ぼくのおばあちゃん』という、映画。
レンタルして、子供達と一緒に観たのです。
のび太が8年前にタイムマシンで、おばあちゃんに会いに行くストーリー。
もう・・・久しぶりに泣きました。涙がとまりませんでした。
私もおばあちゃんに会いたい。。。
昨年、久しぶりに祖父母に線香をあげさせてもらった時、
玄関に足を踏み入れたとたん、涙が溢れてしょうがなかったんです。
実際に一緒に過ごした時間は少ないけれど、ギュギュ~っと、
凝縮された“愛”を感じます。
きっと、遠くから今も見守ってくれているんだろうなぁ。。。
お揃いの洋服
子供の頃は3歳下の妹と、よくお揃いの洋服を買ってもらったものです。
妹は“ピンク”、私は”青”のパターンが多かったかなぁ。
妹とは大人になった今でも仲良しで、彼女こそまさに『ぽっかぽか』な人なのです。
生まれながら『ほんわか~』な、空気をかもしだしていて家族の中でも役割は
『人を和ませる事』でした。(笑)
そんな妹の誕生日プレゼントを一緒に選びに、某ファッションセンターへ行きました。
3歳の甥っ子と、まいどんがおもちゃコーナーに、気をとられている間に
選んでもらい、交代で私もついでに…1枚((^┰^))ゞ テヘヘ
お互い、選んだものをチェックしたら・・・
「あらっ、コレお揃いじゃない?」 「色違いだぁ~」
な~んていう偶然でしょう。
青とアイボリーで、ナチュラル系で2人とも好みが一緒だと再確認しました。
大人になっても、お揃いの洋服を2人で着ることになるなんて
思ってもみませんでした。
“硫黄島”という島
小笠原に住んでいた頃、硫黄島へ行くカーフェリーが何度か
小笠原に入港してきた事は、小学3年生だった私はうっすら覚えている。
戦争の激戦地である“硫黄島”。
今、考えれば…戦争で死んでいった家族を供養する為に、
家族を乗せたカーフェリーが、来ていたのだ。
戦争前は、1000人もの住民がいたという事実。
そして、今もなお島に駐在している人(自衛隊など)がいるという事実。
硫黄島だけではなく、小笠原にも戦争の爪あとが未だに残っている。
その実態を知っている人が、どれだけいるだろう。
その硫黄島を舞台とした映画をクリント・イーストウッド監督が映画にした
両方の立場にたった映画を作ろうとしたイーストウッド監督。
戦争は国と国との戦いだったけれど、戦場で戦う戦士や
送り出すその家族の想いは、日本もアメリカも一緒だったと思う。
私は、どちらの映画も観ていなけれど、“硫黄島”を多少なりとも
身近に感じられる映画を、是非映画館でじっくりと感じてきたい。
七夕の勘違い
『7月7日、夕方からなんだけど、プロテニス選手の試合観に行ってみない?』
確か、電話でのお誘いだった。
私は当時、週2日テニスの練習に打ち込む程、テニスにのめりこんでいた時期で
二つ返事で 『いいよ!』と返事をした事は、憶えている。
☆∮。・。・★。・。☆・∮。・★・
待ち合わせの駅に、仕事が押してしまって20分遅れてしまい、
慌てて走ってきたら・・・
「あれ、ふたりだけなの?」(心の中の声)
そう、彼にとってデートに誘ったつもりの電話だった・・・らしい。
私はいつものテニスサークルの仲間と、ワイワイガヤガヤと行く
ものだとばかり。。。
☆∮。・。・★。・。☆・∮。・★・。
スタートは、こんな感じだった。
七夕の日の勘違い。(笑)
おっちょこちょいの私らしい(!?)ぽっかぽか家のプロローグ。
七夕の思い出。
たばこにお酒・・・そしてギャンブル
たばこにお酒・・・そしてギャンブル
色々な事に挑戦してみた時期ってあるんです。
“たばこ” は、コソコソと夜中にメンソールの
たばこを自宅の部屋で吸ったことがありました。
煙をどうしても飲み込む事ができず・・・いまひとつ。
部屋の煙の匂いが気になって、慌てて部屋を換気。
スモーカーの気分だけ味わって終了。
“お酒” のはじまりは、3歳の頃に食べた『梅酒の梅』。
適時、適量、美味しいお酒を楽しむ事をモットーとし、
『テニスの後のビール1杯』をこよなく愛す。(笑)
“ギャンブル” 短大時代、友達とパチンコ屋さんに入ろうと
試みたけれど、1歩入って店内のあまりにものうるささと、
独特の匂いで即時退散となりました。それ以来、1回も
行っていません。
競馬は、何度か連れて行ってもらった時は
楽しくて、ハマルか・・・!?と自分でも焦りましたが、
競馬場まで足を運んだり、競馬の情報を集めたり・・・
マメに動く事が苦手な私にとって、無理な事でした。
でも、今でも競馬場に連れて行ってもらったらヤバイかも
しれませんね。(; ̄ー ̄A アセアセ・・・
・・・と言う事で、続いているのは“お酒”だけです。 ̄m ̄
煙草を吹かしながらパチンコやに入り浸っている私って
想像つきませんが、Blogなんぞ書いてないでしょうね。。。
ゴジゴジ名言・1
絵を書こう
ページをめくろう
白い世界が待っている
たまに、親がハッとするような言葉をさりげなく言うゴジゴジ。
この言葉をサラッと流してしまうのはもったいない気がして
心に留めておきたい …と思ったのでした。 φ(・_・”)
Be HAPPY
3rd アルバムを聞いてみる。
ホルストの『ジュピター』のカバー、絶品です。
小学校の音楽でこの曲を観賞してから好きになった曲。
レコード屋さんでお小遣い片手にカセットを購入した位、
当時好きだった曲。
この曲をギター1本でカバーしてしまう押尾さんに、拍手。
そう・・・思い出した。
私、中学の時、部活の他に“クラブの時間”という時間があって、
週1でやっていたのが『ギタークラブ』だった。
ギターをちゃんと指導してくれる先生がいなかったので、
1年かけて引けるようになったのはオフコースの「さよなら」だけ。
その後、ギターを伯父に譲ってもらって自己流でやってみたが、
やっぱりダメ。ピアノのようにはいかない。
ギターは本当に挫折した苦い思い出。
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ほ・ろ・に・が
ゴジゴジが幼稚園に入る時、今住んでいるこの街に引越し
大きなお腹を抱えて(妊婦でした)毎日幼稚園のバス停まで
ゴジゴジを送り届けたものです。
幼稚園のバス停に集まる親子に、顔なじみはいなくて
親子そろって不安な毎日を過ごしていたことを思い出します。
気持ち的に積極的になれず、シュンとしたまま会話の輪の中に
入り、うなずく位しか出来ず居心地悪いけれど、先に帰るのも気が引けて
会話の輪に加わっていた、あの苦い思い出を思い起こします。
私とゴジゴジの幼稚園デビューはそんな感じでコケまくりでした。
そんな弱気でネガティブな気持ちのままでは、ママ友を作るのは
絶望的です。
でも、徐々に幼稚園バスのお母さん達と会話していくうちに
辛うじて輪に入れたような・・・感じでした。
私の苦い思い出・・・。
続きがありますが、それはまた別の話。(パクリ!?笑)
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はじめてのおつかい
私が“はじめてのおつかい”に行ったのは、おそらく4歳頃・・・
自宅から自動販売機まで行って、ジュースを買ってくる事。
いつも通いなれている“まるや”の前にある自動販売機。
お金を入れて、ボタンを押しても、押しても、出てこない・・・
そうなんです、買ってくるように言われたジュースは悪い事に売り切れ。
お金を返却する方法を知らなかった。
他のジュースを買っていけば良い、という機転もきかなかった。
私は走って、自宅へ・・・。
母に言うと、少し呆れた顔で「他のジュースを買ってくればいいのに」と言われて
お金を入れてそのままだった事に気が付いて、慌てて自動販売機へ・・・。
時、遅く・・・もうお金も自動販売機にはありませんでした。
はじめてのおつかい…のはずが大失敗。
帰り道は泣きながら帰ったっけ。いつまでも忘れないものです。
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娘も4歳。
私のはじめてのお使い(失敗でしたが)した頃と同じ年代になりました。
お正月番組で小さいな子供達がお使いをする姿を見て、娘も
「私も、ひとりでおつかい、やる!」
と、やる気マンマンです。
でも、でもですよ・・・
ちょっとしたお店も販売機も信号がない道路を渡らなくてはなりません。
それに加え、連れ去り事件の多発が続く昨今、
母はそれが心配でとても『はじめてのおつかい』に、出せません。
それこそ、ストーカーのように娘にピッタリと変装して、ガードしていれば
平気かしら!?(▼_▼¬ゝ
せっかくの申し出をなんとか実現させてあげたいんだけど・・・・ねぇ。
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大掃除をしながら考えた事
20代の頃、私はテニスに夢中…いや、テニスサークルの仲間と
テニスをしたり、飲みに行ったりするのが楽しかった事を想い出す。
お正月のスキーツアー。テニス合宿。日曜日の練習。平日のナイターテニス。
そして、練習後によく飲みに行ったっけ。
門限が厳しかったのにもかかわらず、ついつい楽しくて別れがたくて
遅くまで時間を過ごす。
遅く帰宅すると、両親に説教をさせた事もあったっけ。
「テニスがそんなに大事なら、ラケット持って出て行きなさい!!!」
かなり絞られたのは言うまでもなく(^-^;・・・(当時はかなり凹みました)
どれもこれも、楽しい思い出。
そんな楽しい時代を一緒に過ごしたメンバーと来月9日に逢える事になった。
数年前、テニスサークルが空中分裂して2つに分かれてしまって以来、
一緒にテニスを楽しむ事はおろか、顔も合わす事も年に数回。
本心を言ってしまえば、寂しかった・・・本当に。
今まで仲間だった友達が根こそぎ脱退・・・訳あっての事でしょうが。
そう・・・サークルが2つに分かれてしまってから、私はテニスをやっても
あまり楽しいとは思えなくなっているのかもしれない。悲しい事に・・・
楽しい時代を一緒に過ごしたメンバーのYさんが転勤で関西に引っ越す事になり
そのお別れ会に招いてもらい、一緒に『さよならテニス会&飲み会』に行く事に。
Yさん、私はあなたに自信をもらいました。
おごってもらったり、遊びに連れて行ってもらったり・・・
“ 目に見えない もの ”も頂いたように思います。借りばかりですね。
借りを返す前に、突然の転勤、そして引越し。
9日にはちょっとだけ成長した私を見てもらうのが “ 恩返し ”だと思っています。
ちょっと感傷的になってしまいましたが・・・
大掃除をしながら、そんな事をひとり頭の中で考えていた年末の1日。
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伯母の家と銭湯と・・・
ぐっさん部屋で“銭湯”についての記事をみて、幼い頃伯母の家に泊まりに行った時の
事を思い出した。
両親とも田舎は遠く、夏休みや冬休みになると泊まりに行くのは板橋の伯母の家だった。
昔の伯母の家では風呂はなく、近くの銭湯に行っていた。
その銭湯に連れて行ってもらうのが楽しみで、楽しみで・・・
がらがら~っと引き戸を開けたとたんに香るいい匂い。
ぐっさんの言葉を借りて表現するならば、
“せっけん、シャンプー、おっちゃんのトニックとかがまざったあのなんともいえんいい匂い”
というのがぴったりくる。
カラーーーンとケロヨンの桶が転がる音が響いたり、
おじいさんが何やらわからない歌をエコー付きで歌っていたり・・・
(今になって思えばあれは詩吟だったのかな?)
まさに色々な音や匂いがする場所なのである。
今、思い出して不思議に思うものがひとつある。
昔の美容院でパーマの時にかぶるような機械に激似のすっぽりとかぶるものが
銭湯にもあったような薄っすら記憶しているのだが、一体あれはなんだったのだろう!?
髪を乾かす機械!?
そして、今現在の銭湯にもあるのだろうか・・・?
大人になった今なら是非、あの機械を試してみたい。(笑)
お風呂から上がったら、楽しみはビンに入った飲み物。
牛乳よりも甘い~コーヒー牛乳派だった。ぐいっぐい~っと一気のみが気持いい!
帰り道、その頃にしてはとても珍しかったコンビニエンスに入り、
アイスクリームを買ってもらう。
伯母の家に泊まるのが楽しみだったあの頃を思い出した。
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ハイビスカスの思い出
島にはたくさんのハイビスカスが咲いていました。
ハイビスカスを摘み取っては糸に通して首飾りのレイにして
島を離れ行く人にプレゼントしたものです。
そして、もうひとつ、ハイビスカスと言って思い出すものは・・・ハイビスカスティー。
初めて飲んだのはやはり小笠原で。
このハイビスカスのように色鮮やかだった事が印象的でした。
そして、子供の私には苦手と感じさせた「酸味」。
ハチミツを沢山入れて飲んだ事を思い出します。
今の私ならきっと美味しいと思えそうな気がしています。。。
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クエン酸やビタミンCが豊富で利尿効果、喉の痛み、肌荒れ、便秘、疲労解消、二日酔いむくみを解消してくれるそうです。
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赤い自転車と土手と…
朝のBlogのお散歩・・・
そんな中でfaceさんのBlogに書かれている記事の中でキーワードをもらった。
その文章を読んだだけで私の忘れかけていた想い出の扉が開かれた。
ず~っと前に落としたカギを見つけて開けた扉・・・
☆∮。・。・★。・。☆・∮。・★・。☆∮。・。・★。・。☆・∮。・★・。
「行きはよいよい帰りは怖い」とはこの事だと小学生になりたての私は思った。
土手の道を泣きべそかいてる私、そして買ってもらったばかりの自転車。
赤羽にあるお店で自転車を買ってもらった私はそのまま土手の道のりを乗って帰ることになった。
赤羽から足立区まで土手の道を一直線。
「無理だよ・・・」と何度言った事か。
でも、両親は気長に私が進むのを待ちながらちょっとずつ進む。
赤いピカピカの自転車を何度か転んで倒してしまった。それに私の膝もかすり傷・・・。
お家に着くまで何時間かかったのだろう・・・?
とてもこの道のりが長く長く感じた。
自宅近くにきた時・・・ホッとして見上げた夕焼け雲。
この赤いピカピカの自転車と夕焼け雲の赤、そして膝のかすり傷の赤・・・。
久しぶりに思い出せた・・・赤の想い出。
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思い出話 その5
小笠原で出会って、そして別れていく・・・
出航していく小笠原丸を見に行くたびに見送る人を観察する楽しさと、ほんの少しの悲しい気持ちを感じていました。やはり快適に見えた島民ライフでも、内地(小笠原では本土の事を内地という)へ戻りたいという気持ちはぬぐえませんでした。
出航を待つ待合室では手作りのハイビスカスのレイを首からさげて、さようなら○○さんという旗まで作ってお別れをしている人達の姿をよくみます。
船に乗り込むのは観光客が殆ど。ペンションのオーナー達は帰っていく人たちへ「いってらっしゃい!また小笠原へ・・・」との旗をかかげていました。「いってらっしゃい」の言葉は不思議に思っていたけれど、いつでもこの小笠原に帰って来るんだよ・・・というメッセージだったんですね。
このメッセージの通りに小笠原の虜になってしまった観光客がこの地に住み着いてしまうという話はたくさんあります。今の小笠原はそういう熱烈的に小笠原が大好き!という人がたくさん移り住んでいるのです。
その気持ち、今の私ならとてもわかります。
見送る人の中には、
トランペットを吹く人。
青灯台から見送りの飛び込みダイブをする人。
途中まで小型船で船を見送り、そこからダイブする人。それぞれなんです。
甲板からいつまでも手を振る乗客。
ハイビスカスのレイを海に投げ捨てるのは、また帰ってこれるように・・・という願いが込められていると誰かから聞きました。
そんなドラマでみたような光景を見るたびに,得体のしれない想いを感じた事を憶えています。
船の見送りにはそれぞれのドラマがあるのでしょうね。そんな事を知ってか知らずか・・・船の出航を用もなく見に行く事が好きなのでした。
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十数年前の事・・・
かれこれ十数年前くらいのこと・・・
病院の栄養士として3年間無我夢中でこの仕事をしてきた。
でも、病院の事情で栄養課全般を委託会社にするという方向になり、私はこの機会に病院を辞めて新しい事を始めようと思っていた。
病院もいいのだけれど、もっと違う分野での栄養士としての関わり方はないのだろうか・・・と。
「スポーツ」と「栄養」。
何気なくだけど、この2つを結ぶ仕事をしたかった。
実際、こういう求人は少ない。
実践もともなわないし、経験もない私にどれだけの仕事ができるのか、どういう所でこのような求人をしているのかがあやふやで模索の日々が続いた。
「日本栄養士会」の事務所で栄養士関連の求職、求人を閲覧できるというのを何かの雑誌の記事で見て足を運んだ。やはりスポーツと栄養士を結ぶ仕事の求人はなく、求職する立場として自分の希望する仕事、条件、経験、を書いたカードを残してこの日は帰ってきた。
ある日、1本の電話が鳴った・・・
「○○○調理専門学校の○○と申しますが・・・」と、女性からの電話。
栄養士会の求職カードを見て電話してきたらしい。
調理師専門学校のアシスタントを探しているとの事。
自分との希望とはかけ離れているけれど、何かのご縁があるかもしれないと専門学校を見せてもらいに行った。
しっかりとした学校ではあったが、面接して言われたこの一言が引っかかった。
「春からこの学校に入ってくる生徒たちの担任をお願いしたい。」
電話ではアシスタントとの事だったが、こういう+αもあったという事だ。
「私がですか~!?」と裏返った声で思わず言ってしまった。
その場では返事出来ずに、後日電話でとのことで帰った。
その日から悩みに悩んで・・・
出した結論は「私が教壇にたって担任している姿は想像つかない。」
向き不向きは自分が一番知っている。
絶対的に向かない、との判断でお断りの電話を入れた。
こんな感じで就職活動に明け暮れていた十数年前。
自分のやりたい事をおぼろげながら持ち、夢描いていたあの頃・・・
とても懐かしい。
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思い出話 その4
父島の海岸はアオウミカメが産卵にやってくる貴重な場所。
この父島で私は「アオウミカメの色々な場面」立ち会う貴重な経験をした。
東京からの船が着く二見桟橋のほど近くに「水産センター」というウミカメを保護し、研究している場所があった。
いつでもカメに会いたい時には気軽に入って行ける、もはや私たちにとって遊び場のような所。
大きな水槽には大人のカメ、そして水産センター内で生まれた子ガメ達も元気に泳いでいる。
小さな前足をひょこひょこと動かしながら泳いでいる小さなカメたちが、愛くるしいのだ。
スイカを食べて残った皮の部分を持っていってはあげていたっけ。
真夏のある日の晩、父が職場から帰ってくると「水産センターでアオウミカメの卵がふ化し始めているから一緒に見に行こう!」と言った。
カメが産卵した卵を水産センター内の場所に移してある程度大きくなるまで保護するのだ。
まさに、今卵から出てきたぽっかぽかの小さな命を近くで見ることができた。
たくさんの卵が産み落とされ、ふ化して大切に保護しある程度成長してから、海へ返す・・・
でも、こんなにたくさんのカメを海へ送り出しても、生き残ってまた小笠原に帰ってくるカメはほんの一握りしかいないと聞かされて、子供ながらとても切ない気持ちになったのを憶えている。
だったらこのまま大人になるまで水産センターで面倒みてあげればいいのではないか・・・と。
でも、ウミカメはウミで生きるべきもの。
鳥かごに入れられた鳥のようにいつまでも水槽で生活させてはかわいそうだ・・・という話を聞いて納得した。
そんな経験は「アオウミカメ」を身近に感じるようになるきっかけになった。
父島の周囲にはとても自然豊かな無人島が点在している。
父の友人のモーターボートに乗せてもらい、そんな島に連れて行ってもらった時に泳いだら偶然ウミカメに遭遇した。
海の中をまるで空を飛んでいるかのように泳いでいるカメ。とても感動的だった。
今でもプールでたまに泳ぐ私。平泳ぎをする時、イメージするのはウミカメの泳ぎ方。
堂々と、そして優雅に前足をゆっくりと動かす。プールにいながら小笠原の海で出会ったカメを想っているのかもしれない。
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思い出話 その3
転校してから3ヶ月が過ぎようとしていた頃の事・・・
小笠原小学校では行事の一環として、「遠泳大会」をやる事になっていた。
私は元々水泳は大好きだったけれど、小学3年生の時点で泳げても100Mがせいぜい。
灯台からスタートして小学3年生以上の児童が列になって泳ぐ。片道500Mを往復で、1000M。
1キロだ。気が遠くなってしまう距離。とても無理だと思っていた。
でも、遠泳大会はやってきてしまった。
途中で脱落した人を拾うボートが後からついてくるので、ちょっとは気が楽だったが・・・
吸い込まれそうなマルンブルーの海。周りから聞こえる歓声。
拍子抜けしてしまうほど、あっけなく500Mを泳ぎ、あと500M。
プールで1000Mを泳ぐのと違ってゴールが見える。あそこまで頑張れば・・・という思いだけで前に進めた。
そして、灯台に着いてゴール!!!
達成感はとても心地よく、『1キロ泳げたんだ!』という事が私の中でとても自信になった。
この頃から、前向きになっていったのかもしれない。
近くにある小川には色鮮やかなグッピーがいて、グッピーをつかまえたり、住んでいた家の前にある山に登っては秘密基地を作ったり・・・子供らしい遊びをここに来てから体験できた。
目の前にある公園にはビイデビイデ(ディゴ)の木があって、そこは私たちの集合の場所だった。
木の上に上ってみんなでおしゃべり。
空がとても近くに見えた。
私もやっと自然の中での遊び方、接し方に慣れてき馴染んできたのだろう。
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思い出話 その2
実際に島での生活が始まり、色々な事がわかってきた。
例えば・・・
テレビの電波が届かない為(当時は)、テレビのない生活の物足りなさ。
夜の長い事。
遊園地、動物園もなく、私にとって心から楽しいと思える場所が無かった事。
島にはお店の数も少なく、欲しい時に欲しい物が手に入らない事があるという事。
とにかく、山と海、自然が溢れるこの島。
今、現在の私ならば手放しで自然を満喫し、楽しめるのだろうが、当時の私は「豊富な自然」は二の次だったように思う。「大好きだったピンクレディーのはどんな曲を歌い、どんな振り付けなんだろうな・・・・」とか、「また遊園地行きたいな・・・」なんて言っては、島に来た当初の私は母を困らせた。
七夕の短冊にも「早く(足立区に)帰りたい!」という願い事を書いた。
早く帰りたい、と言うものの学校生活は楽しかった。
同じ3年生には男の子が2名、女の子が4名。私が転校してきた事によって3年生は7名になった。
地元の子は4名。私のように親の転勤によって転校してきた子は3名。
1学年につき1クラス。学校全体、こじんまりとしているけれど、そこが私にとって新鮮だった。
休み時間も学年、男女を問わずみんなで遊びたい遊びをしていた。
ある日の私の日記(先日実家から見つかった日記・笑)には、こんな事が書かれていた・・・
今日、音楽の先生は車のうんてんめんきょのしけんでお休みだった。
だから、音楽の勉強はせずに、「お昼寝」をみんなでする事になった。みんなで床に寝ころんだ。
私は寝ながら本を読んだ。たのしかった~!
この日の事は私もよく憶えている。授業が「お昼寝!?」という衝撃。(笑)
こんなのんびりとした学校生活は気に入っていた。
今、気が付いた事がある。
小笠原に来たばかりの私の気持ちは「北の国から」の純と蛍が富良野に来た時の気持ちに近いものがあるんじゃないかな・・・と言う事。
東京で何不自由なく暮らしていたのに、急に自然あふれる環境にきて、とまどう気持ちに似ている。
純と蛍が富良野に少しづつ馴染んでいくように、私も小笠原に少しづつ馴染んでいくのだった。
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ご参考に
私の「思い出話」として小笠原諸島の父島を紹介するにあたり、何か参照にできるサイトがないか検索してみたら、ありました。
しかも、Blog形式のようです。このようなBlogがあったとは・・・・ヾ(〃^∇^)ノわぁい♪
小笠原の魅力満載です。しかも、リアルタイムな写真まで多数載っているのが嬉しい!
今後の私の「思い出話」に登場する場所の写真も載っています。
もし、興味がある方はご参考に・・・・。
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思い出話 その1
それは父の転勤の話がきっかけだった。
「お父さん、遠いところでお仕事になっちゃうんだけど、みんなで一緒に行く?」という母の質問。
私は迷わず、「お父さんと一緒がいい!」と答えたように記憶している。
それは、8歳の頃の私。
今にして思えば、母も自分で決めかねていたのかもしれない。
なにしろ、東京から1000kmのところにある小笠原諸島、父島なのだから・・・。
でも、私たち子供の意見、そして両親の希望が一致して家族みんなで2年間の島民ライフを選んだのだ。
生まれてから8年間を過ごした足立区の団地。
結婚の約束をしていた(笑)、幼馴染のゆうくんとあきちゃんとのお別れ。
親友だったみっちゃん、大好きだった板橋のおばちゃん、
いつも遊んでいたお気に入りの場所である土手、そしてタンポポやクローバーともしばしの別れ。
20%の感傷的な気持ちと、80%の小笠原、父島の生活に対する期待で膨らんでいた。
当時は父島丸という船が東京⇔小笠原父島を繋いでいた。
確かまる2日くらい船に寝泊りしないと着かなかったように記憶している。
何しろ、一般の人の交通手段はこの船しかなかった。
(今でこそ、時間短縮で船で25時間。今年にはもっと早くなるそうだが・・・。)
船の中は客室しかなくて、乗客はテレビを見たり、ごろんと寝転んだり・・・。
私と妹は滅多に乗れない船が嬉しくて船内を行ったり来たり。
甲板からとても深いブルーの海をかき分けて進む船の波をじ~っと見ていた。
かすか遠く、向こうの方に見えてきた島。
父島がある。
子供だった私は、深い事はなにひとつ考えもせず、単純に「やっと着いた!」と思っただけだった。
父は若い頃からの希望で、小笠原転勤が叶ったのだが今にして思えば、それに着いて来た母は不安な気持ちもあったのかもしれない。
「○○さん!ようこそ、小笠原へ!」という歓迎の旗を見つけ、私たち家族は父島に降り立ったのだ。
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